読書メモ『イーロン・マスク 上』- 開発プロセスを革新する「5つの戒律」

Tadashi Shigeoka ·  Sat, December 30, 2023

ウォルター・アイザックソンによる伝記『イーロン・マスク 上』を読みました。テスラやスペースXでの彼の壮絶な挑戦が描かれていますが、特にソフトウェアエンジニアとして私の心に深く突き刺さったのが、第6章で語られる生産に関する「アルゴリズム」、通称「5つの戒律」です。

これはフリーモントのテスラ工場で生産地獄に陥った際に、マスクが幹部陣に繰り返し説いた原則です。一見すると製造業のカイゼンのように見えますが、その本質はソフトウェア開発やプロダクトマネジメントにも完全に適用できる、普遍的な真理だと感じました。

今回は、この「5つの戒律」と、そこから導かれる教訓を、我々ソフトウェアエンジニアの視点で読み解いてみたいと思います。

イーロン・マスクの「アルゴリズム」- 5つの戒律

マスクが「耳タコになるほど繰り返す」と語った5つの戒律は以下の通りです。

第一戒: 要件はまず疑え

必要だと考えられる要件にすべて担当者の名前を付けること。法務部や安全部門が要件を追加した場合でも同じだ。もしその要件が、本当に必要でないなら、いらない。定期的にその要件を見直すこと。そして、その作業をやめろ。

これはソフトウェア開発における要件定義そのものです。「なんとなく必要そう」「あったら便利そう」という曖昧な理由で追加された機能が、どれだけシステムを複雑にし、開発スケジュールを圧迫してきたことか。

この戒律が教えてくれるのは、すべての要件には明確な「なぜ?」と「誰が?」が必要だということです。機能要求チケットには、必ずそれを要求した担当者と、その背景にある課題(User Storyの “As a …, I want to …, so that …”)を明記する。そして、「本当にこの機能はユーザーの課題を解決するのか?」「もっとシンプルな方法はないか?」と開発チーム全員が健全に疑う文化が不可欠です。

第二戒: 要件はできるかぎり削減せよ

もし元に戻す必要があるなら、すぐにやればいい。実際に戻すときには10以上も元に戻さなければならないということはまずない。エンジニアたちはあまりに多くのことを追加してしまう。そうなるとシステムを複雑化させ、最適化したつもりで逆に最適化しないことが多い。第一戒が守られていれば、第二戒も自然と守られることになる。

これはアジャイル開発における MVP (Minimum Viable Product)YAGNI (You Ain’t Gonna Need It) の原則と完全に一致します。エンジニアは本能的に機能を増やし、システムを複雑化させがちです。しかし、一度組み込まれた機能を後から削除するコストは、追加するコストの何倍もかかります。

「機能を削る勇気」を持つこと。まずは最小限の価値を提供できるプロダクトをリリースし、ユーザーからのフィードバックを元に次の一手を考える。この戒律は、不確実性の高い現代のソフトウェア開発において、極めて重要なマインドセットです。

第三戒: プロセスを簡素化せよ

工程はほとんどの場合、短縮可能だ。ステップを減らすこと。工場の自動化についても同じことがいえる。テスラの工場で最大の問題はスピードアップすることだ。つまり、ラインの時間を使うという愚を犯している。

開発プロセスそのものにメスを入れる戒律です。あなたのチームのCI/CDパイプラインは複雑すぎませんか?コードレビューのフローは形骸化していませんか?毎週の定例会議は本当に意思決定に貢献していますか?

「これまでこうだったから」という理由だけで続いているプロセスはないか、常に問い直す必要があります。すべてのステップが「価値」を生んでいるかを見極め、無駄な工程は大胆に削ぎ落とす。これにより、チームはより速く、より本質的な作業に集中できるようになります。

第四戒: まず自動化するな

ネズミやフリーモントで一番よく見かける動物を思い出せ。自動化は必ず失敗する。まずは工程を簡単にし、手作業で実行してみて、それから自動化せよ。

これは、自動化を善とする我々エンジニアにとって、最も耳の痛い言葉かもしれません。しかし、これは真理です。

壊れたプロセスや不要なプロセスを自動化しても、無駄を高速化するだけです。

新しいツールを導入したり、複雑なデプロイスクリプトを書いたりする前に、まずはそのプロセスを手動で実行してみる。そこでボトルネックや非効率な点を発見し、プロセス自体を改善(第三戒: 簡素化)する。その上で、本当に繰り返し発生し、かつ価値のある作業だけを自動化する。この順序が決定的に重要です。

第五戒: プロセスの自動化を始めたらすぐ、止めることを考えろ

必ず例外が生じる。工程の見直しを続けること。

一度作った自動化の仕組みを「聖域」にしてはいけません。ビジネス要件やチームの状況は常に変化します。かつては有効だった自動化パイプラインが、今ではメンテナンスコストだけがかかる技術的負債になっているかもしれません。

自動化は作って終わりではなく、常にその有効性を監視し、改善し、そして時には「廃止」する勇気も必要です。

アルゴリズムから導かれる、開発チームへの教訓

この5つの戒律を前提とすると、マスクが語るいくつかの「発見」も、我々の日常に深く関わってきます。

  • 技術的な課題は現実に接続されなければならない。 たとえばソフトウェアチームの課題なら、現場に出てコードを書くだけではなく、コードがどのように生産ラインの現場で使われているのか理解しなければならない。現場で働く作業員にインタビューし、彼らが直面している問題を理解することが不可欠だ。

エンジニアはコードを書くだけでなく、そのコードが「現場」で、つまりユーザーにどう使われているかを知るべきです。ユーザーインタビューへの参加、カスタマーサポートの問い合わせログの確認、ドッグフーディングの実践が不可欠です。

  • 仕事は分業できない。 ある仕事を一つのチームが担当するとしても、それだけで完結するわけではない。すべての仕事はほかの人の仕事と連携している。つまり、仕事は孤立して存在することはない。相互の連携を前提に動かなければならない。

フロントエンド、バックエンド、インフラ、QAといったサイロ化したチームは、連携の遅延と責任の押し付け合いを生みます。DevOpsの思想やクロスファンクショナルなチーム編成が、なぜ重要なのかを物語っています。

  • 部門間での情報伝達が遅れると、仕事全体が停滞する。 部門ごとに分かれていると、連携を欠きやすくなる。問題が深刻化する前に立場に関係なく意見を言わなければならない。立場に追い込まれてからでは遅すぎる。

  • 報告がうまくいかなければ、すべては無駄になる。 管理職に伝えて終わりにしないこと。階級を飛ばす必要があれば、ためらわずに飛ばせ。テスラではそれが許される。

階層を飛び越えたコミュニケーションを恐れてはいけません。問題を発見した人が、役職に関係なく、直接関係者にアラートを上げる。心理的安全性の高いオープンなコミュニケーション文化が、プロジェクトの停滞を防ぎます。

  • 長期的な成功は、必ず短期的な成果の積み重ねの上にある。 短期的な成果なくして長期的な成功はない。毎週必ず何かしら成果を出せ。仕事を前に進めること。それができなければ、力を失う。

「毎週必ず何かしら成果を出せ」という言葉は、アジャイル開発のスプリントそのものです。毎週、動くソフトウェア(デプロイ可能なインクリメント)をリリースし続ける。この小さな成功の積み重ねが、大きな価値へと繋がります。

  • 規則といえるのは物理法則だけだ。 それ以外はすべて勧告である。

社内ルール、過去の技術選定、既存のアーキテクチャは「勧告」にすぎません。より良い方法があるのなら、前提を疑い、挑戦し、変えていく。このハッカー精神こそが、イノベーションの源泉です。

まとめ

イーロン・マスクの「アルゴリズム」は、製造業の物理的な制約の中で磨き上げられた、極めて実践的な原則です。しかし、その根底にあるのは、「本質は何か?」を問い続け、複雑さに立ち向かい、無駄を徹底的に排除するという、分野を問わない普遍的な哲学です。

要件を疑い、削ぎ落とし、プロセスを簡素化し、本質を見極めてから自動化する。

この一連の流れは、複雑化し続ける現代のソフトウェア開発において、私たちエンジニアが進むべき道を示す、強力な羅針盤となるでしょう。あなたのチームの「アルゴリズム」は、果たして本質を捉えられているでしょうか?

以上、イーロン・マスクから学びを得た、現場からお送りしました。

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